(第1回目の続き)
初めの頃のキリスト教は、『イエス青年』こそが、神の存在を証明する人物として位置づけられていた。『旧約聖書』に登場する『エレミヤ預言者』が語っていた『新しい神様との契約』は、この『イエス青年』によって成し遂げられたとされていた。なお、この預言のエピソードは、『エレミヤ書31章31節から34節』に登場している。
この『新しい契約』を裏づけするエピソードが、まだある。『新約聖書』に登場するイエス青年の弟子『パウロ使徒』が、『旧約聖書のシナイ山の契約』が古い契約であり、『イエスによる奇跡』が新しい契約であると語っている。このエピソードは、『コリント使徒への手紙Ⅱ3章14節』に登場している。
『旧約聖書』と『新約聖書』という名前の由来が、これで理解できるだろう。『旧約聖書』は、神様と交わした『旧』い契『約』のドラマである。『新約聖書』は、神様と交わした『新』しい契『約』のドラマである。この2冊が、キリスト教の聖典である。いわば、『キリスト教』という壮大なドラマの、前編と後編。この両方の本を読み初めて、『キリスト教』というドラマを読破したことになるのだ。
聖書は『神様』であると理解しても良い。『言葉で働く神様』である。物語の中では、神様は『アブラハム』に語りかけ、主人公の彼は行動に出る。物語が進むと、神様は『モーセ』に語りかけ、主人公の彼はやはり行動に出る。エジプトで奴隷状態にあった『イスラエル人』たちを、『モーセ』は救出へ向かうのだ。更に物語が進むと、『イザヤ預言者とエレミヤ預言者』が、神様の言葉を聞き、これを市民に語る。
後編へ入ると、神様の言葉を代弁するのは『イエス青年』となる。『ヨハネ使徒』が書いたとされる後編の第4部『ヨハネによる福音書』によれば、『イエス青年』の言葉は『神様の言葉』そのものだという。これは同章の冒頭、第1章1節から登場している。実際に本を読み通してみると、『イエス青年』が語り、そして行動していることすべては、神様が人間に伝えようとしている内容、そのものなのだ。
こうして、『旧約聖書』と『新約聖書』は、共通して『神様の言葉』そのものと言える。この言葉を書き記した物語の作者たちは、全員が『神様の言葉の証人』と言える。彼らのお陰で、私たちの人生は明るく照らされ、教えられ、導かれ、一人ひとりに新しい救いを与えてくれる。
【記事:G・JOEⅡ】
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